ニヒリズムからの脱却。あるいは美と愛と正義について。

はじめに

ニヒリズムを通過していないものは人間ではない。動物である。所与の世界を所与のものとして受け入れ、自らの人生と世界に対して何ら変革を意志しない存在は、「考える葦」ですらなく、人間であるとは言えない。次に、ニヒリズムにとどまっているもの、彼は単に不幸である。変革の意志を宿す、真の意味での知を手に入れたのと全く同時に彼は「存在」そのものに疑問の目を向けるようになる。そしてその疑問の目が彼を導く先にあるのは死である。しかし、我々の生物としての本能が、自らの命を絶つという選択を簡単には許さない。結果、彼は生ける屍と化してしまう。では、アダムはりんごを食べるべきではなかったというのか?否。我々はニヒリズムを乗り越え、真の人間或いは超人たることができる。これこそ神の思し召しである。我々は動物であることをやめ、無気力な人間であり続けることを己に許さず、超人を志向せねばならない。

ニヒリズム

まずニヒリズムの本稿での定義を明確にしたい。ニヒリズムとは、「相対主義を突き詰めた結果、世界とその中に存在する自分自身の生に意味と価値を見出せなくなった状態、あるいはその状態を前提に置く哲学的立場」である。したがって、混同されがちなシニシズムとは全く異なったものである。
ポストモダンに生きる我々の多くは無自覚的にこのニヒリズム状態に陥っており、さらに世界と自分について真剣に考える人間であれば自覚的に通らざるを得ないモノでもあると思う。
そして、この、現代のあらゆる人間が直面しうる実存的苦しみから解放されるための私なりの方法をここで文章に起こしてみたいと思った次第である。
ところで、ニヒリズムと言ったときに真っ先に思い浮かぶのは、言うまでもなく、ニーチェである。彼の言葉を借りれば、私は本稿で、「如何にすれば消極的ニヒリストではなく積極的ニヒリストとして生きていくことができるのか。」を示そうとしているということになる。
私自身がどのようにしてニヒリズムに至ったかは別の記事に書くつもり。

 

美と愛と正義


序論
ニヒリズムからの脱却のためにしなければならないこと、それは一言でいえば「ゼロベースからの世界の再構築」である。相対主義によって自分を含めた世界全体の意味の秩序が瓦解し価値判断不能に陥った状態から、再度世界を意味付け可能にしなければならない。そのためには、ある意味「思考停止」をして、アプリオリな価値判断基準を設定すること、そして、その世界と自分の人生の間に架け橋をかける作業が必要である。
再度ニーチェを援用すれば、我々は自分オリジナルの「仮象」を設定しなければならないのだ。
私がアプリオリなものとして設定した価値判断基準は3つある。それが、美と愛と正義である。

美 / La Beaute
受験生時代、登校中すら手元の参考書に食いついていた時、ふと目を上げると梅の花の鮮やかさが目に映る。忙しない人々が無表情で行きかう道を歩いていると、不意にジャズの生演奏がカフェの半開きの扉から耳に飛び込む。興味本位で飲んでみたポルトガルのワインが舌を心地よく滑る。どんづまりな状況で頭を抱えた時に自分の手首から、香水のミドルノートが香ってくる。
日常のなんともない瞬間に、世界がその美しさの片鱗を見せることがある。そんな瞬間が訪れるたびに私は「ああ、世界はこんな場所だったのか。」と感動する。そして、自分がその美しい世界の中に存在していることを自覚する。さらに、眼前の美しさを美しいと認めることができるような器官とアルゴリズムを備えて生まれてきた自分自身に感激し感謝する。
このように、私たちは現象に美しさを見出すとき、世界に対して認めた美しさが跳ね返ってくることで、自らをいつくしむことができるのだ。こうして私たちはまず世界を素朴に肯定し、そして自分の尊厳を回復する。
また、創作活動によって自分自身が世界の美しさの一部を構成していることを自覚することで、私たちは尊厳の回復した自分と世界の間に一筋の糸をかけることができる。
この美という価値判断基準がその人の生の中で多くを占めていた人を挙げるとしたら、ショパンイヴサンローランカニエウェストではないかと思う。
私個人としては、下手の横好きでピアノを弾いていたり、ヒップホップのサンプリング文化が好きだったりするので、インプットアウトプット両面で音楽活動を「人生のサブメジャー」として自分なりの美の実践を続けたいと思う。
しかし、美という価値判断基準だけでは、自分の尊厳しか回復できない。まだ、自分1人だけが世界と対峙している状況である。輪をもう一層広げるために必要なもの、それが愛である。

愛 / L’amour
毎日温かくおいしいごはんを作ってくれる母、受験で失敗した時に真っ先に声をかけてくれた友、勉強、部活において私を叱ってくれる先生。彼らに共通してあるのは愛である。
愛とは自分の視界の範囲内にある人たちに対して向かう慈しみの心である。慈しみの心を互いに持ち、利害関係ぬきで助け助けられる関係を結べたとき、私たちは自分自身の尊厳だけではなく周囲の人々の尊厳も回復できる。そして自分と世界を結ぶ一本の糸はその強固さを増すのだ。
歴史上の偉人ではイエスキリスト、実在しない人物ではワンピースの白髭や、映画ゴッドファーザーのドンコルレオーネなどが分かり易いかと思う。
私は、自分自身の能力の低さや人間としての矮小さに比して、周囲には卓越した能力と高潔な魂を持ち合わせた人が多くいる。彼らはどういうわけか私を認めてくれており、高めあう存在として人生を並走してくれる。また、いうまでもなく、母は私に無償で際限のない愛を与えてくれる。私は彼らに対して抱く感情が、単なる感謝や友情よりもっと広い、愛という単語で形容すべきものであることに最近気づいた。
そんな、私の周りに今いるすべての人たちを世界の理不尽から守り幸せにできるようなるような力と優しさを備え、愛に満ちた人間になりたいと心から思う。


正義 / La Justice
美と愛という価値判断基準を設定することで、私たちは世界を素朴に肯定し、自分自身とその周囲の人間の尊厳を回復することができた。そこで、最後に必要となるのが正義である。
正義という価値判断基準が必要な理由は以下の2点においてである。
1つに、正義心に基づいて世界をより善なる方向に導いているという自覚があれば、世界を所与のものとして素朴に肯定するだけに甘んじず、強固に肯定できるようになるからだ。
2つ目に、正義によって、愛ではその視界の範囲内におさまらなかった存在を視界の範囲内に収めることができるからだ。例えば、シリアで爆撃に遭っている子供たちや、家畜として苦しみながら殺される豚は、美と愛では自分自身とつなげることはできなかっただろう。これらを捉えることで、私たちは尊厳を取り戻す輪を自分の周囲の人たちより外側に広げるどころか、世界そのものとゼロ距離でつながれるようになるのだ。
こうして私たちは世界と自分の生に再度価値を見出し、そして両者をつなぐことができた。
歴史上の偉人ではレーニンゲバラやF・ルーズベルト、存命の人物ではイーロンマスクなどが分かり易い例であろう。
私は、世界の幸福の総量はマイナスだと考える。世界には未だに、許すまじき理不尽による苦しみと悲しみが満ちている。この苦しみと悲しみは人間のそれに限らない。そして私たちは、自分の幸福が他人の不幸の上に立つものであるということに無自覚である。これは今の国際関係や資本主義の構造や環境問題を指摘するまでもなく明らかであるはずなのに。
私は正義の実践として、東京と日本を起点に世界をよりよくする運動に人生を賭けるつもりであり、その具体的な活動を進める会もすでに発足している。

まとめ
美と愛と正義。この3つの価値判断基準を設定することで私たちは世界と自分に価値を見出すことができた。そして世界と自分を連続なものとしてとらえることにも成功した。これで晴れてニヒリズムから脱却できた!(はず)
この3つは順番を間違えないことが肝要であると留意しておきたい。美と愛と正義に対応して自分、周りの人、世界全体に輪が広がっていくと説明した通り、美から始め正義で終わることが大事だと思う。
とことで、この3つの単語は、フランス語では la beaute, l’amour, la justice であり全て女性名詞なのであるが、フランス語を勉強していると、女性名詞は男性(人間)が欲望する対象であることが多いように思う。この3つは、ニヒリズムに陥った人間が欲望すべきであるとフランス語も言っているのではないかとは考えすぎだろうか。
ちなみに、それぞれの説明項で、代表的な実践者の名前を出したが、実はこの3つすべてをバランスよく実践した人間がいる。それがナポレオンである。ナポレオンの最期の言葉は、「軍隊。ジョゼフィーヌ。フランス。」だったそうだ。彼は戦術や組織としての軍隊を、一種の美を見出すほど洗練させた軍事の天才であった。一方でジョゼフィーヌを生涯愛し続けた。また、フランスの英雄としてかあられることが多い人物でありながら彼の心は常に故郷コルシカ島にあった。3つ目の言葉に関しては説明不要であるとは思うが、彼はナポレオン法典を作り、国民国家を輸出した。近代世界の創始者として正義を実践した。世界精神の発現、世界史的個人としての英雄像を語られることの多いナポレオンであるが、私はそれは彼の正義の実践という一面しかとらえていないように思う。彼は美と愛と正義を死の床まで実践した、積極的ニヒリストの極地の人間なのだ。フランス人である彼の頭には la beaute, l’amour, la justice の3つの単語が刻まれていたのだろうと思う。

 

最後に

ニヒリズムを通過していないものは人間ではない。動物である。所与の世界を所与のものとして受け入れ、自らの人生と世界に対して何ら変革を意志しない存在は、「考える葦」ですらなく、人間であるとは言えない。次に、ニヒリズムにとどまっているもの、彼は単に不幸である。変革の意志を宿す、真の意味での知を手に入れたのと全く同時に彼は「存在」そのものに疑問の目を向けるようになる。そしてその疑問の目が彼を導く先にあるのは死である。しかし、我々の生物としての本能が、自らの命を絶つという選択を簡単には許さない。結果、彼は生ける屍と化してしまう。では、アダムはりんごを食べるべきではなかったというのか?否。我々はニヒリズムを乗り越え、真の人間或いは超人たることができる。これこそ神の思し召しである。我々は動物であることをやめ、無気力な人間であり続けることを己に許さず、超人を志向せねばならない。